『海辺の映画館ーキネマの玉手箱』〜映画感想文〜
※この記事はちょっとだけネタバレしています。
『海辺の映画館ーキネマの玉手箱』(2020)
上映時間 179分
名匠・大林宣彦監督が20年ぶりに故郷・尾道で撮影し、無声映画、トーキー、アクション、ミュージカルと様々な映画表現で戦争の歴史をたどったドラマ。尾道の海辺にある映画館「瀬戸内キネマ」が閉館を迎えた。最終日のオールナイト興行「日本の戦争映画大特集」を見ていた3人の若者は、突如として劇場を襲った稲妻の閃光に包まれ、スクリーンの世界にタイムリープする。戊辰戦争、日中戦争、沖縄戦、そして原爆投下前夜の広島にたどり着いた彼らは、そこで出会った移動劇団「桜隊」の人々を救うため、運命を変えるべく奔走するが……。主人公の3人の若者役に「転校生 さよならあなた」の厚木拓郎、「GO」の細山田隆人、「武蔵 むさし」の細田善彦。2019年の東京国際映画祭で上映されたが、劇場公開を前に大林監督は20年4月10日に他界。本作が遺作となった。
予告編
映画で未来を変える!!大傑作!!
最期まで平和のために“映画”と今を生きる私たちを信じた
大林宣彦監督の渾身の遺言書。
※前書きとして、大林監督を勝手に“人生の師”としていた僕の個人的な文章が少しばかりありますので、すっとばして頂いても結構です(笑)
2020年4月10日。コロナの影響がなければ、この映画が公開されるはずだったこの日に、大林宣彦監督は肺がんのため82歳でこの世を去りました。
妻であり、長年のプロデューサーでもあった恭子さんは、監督は「あの世へロケハンに行った」と後に話されていましたが、監督のファンであった僕としては本当に監督の死が辛く、大林さんの過去作を見返すことでその思いを消化していました。
初めて大林作品に触れたのは言わずと知れたカルト的大名作「時をかける少女」。
棒読みの演技、安っぽい合成、急にミュージカルになったり、、、
とにかく初見時の印象としては「ヘンな映画」。
ただ、観ていくうちに主演の原田知世さんの圧倒的透明感に魅了され、気づけばクライマックスで号泣、エンドロールが終わる頃には拍手したいぐらい感動していたのでした。
それからもう何十回も「時かけ」を観て、他の大林作品を観るうちに、監督の周到な映画作りのテクニックに気づき、改めて「映画ってこんなに自由でいいんだ」、「自由な表現はこんなにも面白いんだ」と教えてもらいました。
「大林監督を生で見たい!」と、登壇される尾道映画祭のために初めて尾道に行き、ロケ地巡りをしたのもいい思い出。
「花筐/HANAGATAMI」の上映前、監督がマイクを手放して、会場中に聞こえる大きな声で「ヨーイ!アクション!」と掛け声をされた時には、それだけで涙が出てくるような力強さで、あの声が聞けて本当によかったなと思います。
「自分が自分であるために、もっと自由におなりなさい。」
そう語る大林さんの生き方、考え方に深く感銘を受け、大林信彦という存在が自分の生きる指針とまでなりました。
新作が出るたびに、映画の勢いやエネルギーが増していく大林監督の姿勢には本当に驚かされるばかりで、遺作となってしまった20年ぶりに尾道で撮影された本作にも、並々ならぬ期待を胸に、7/31の公開日の初回で鑑賞。
その2日後にもう一度と、計2回鑑賞しております。
さて、前書きが長くなってしまいましたが、先に結論から申し上げて、これは日本映画史に残る大傑作です!!(断言)
大傑作であり、超カルト作品であり、今後こんな映画は二度と出てこないとまで思わされる作品となっております!!
鑑賞直後の僕の感想はこんな感じ。
『海辺の映画館-キネマの玉手箱-』
— チャンタ (@chantake_cinema) 2020年7月31日
とてつもない映画を体験してしまった。
どんな言葉を使っても陳腐に聞こえてしまうから、この気持ちを言葉にできない。日本の戦争の歴史、映画の歴史、そして大林宣彦という人の歴史が詰まった"玉手箱"。大林監督は全身全霊をもって"映画"を体現する人だった。
まぁとにかく、179分間1秒たりとも映画の勢いが失われないまま進む映画で、正直に言うと鑑賞後、あまりに圧倒されてしばらくボーっとしてしまいました(笑)
なぜそんな状態になってしまうかと言うと、一つの要因はこの映画の恐ろしいほどの情報量だと思うのです。
オープニングのカウントダウン、製作委員会やプロデューサーの読み上げ、字幕テロップ、ナレーション、セリフ、SE、合成、画面の色の処理、音楽、スピード感のある編集、、、
怒涛のスピードで、戦争の歴史と映画の歴史、そして大林宣彦の個人史が語られていく、特に前半の1時間はものすごい情報量ですので、とにかく画面で起きていることに必死でついて行って頂きたい(笑)
「この空の花~長岡花火物語」「野のなななのか」「花筐」と、映画の情報量がとんでもないことになっている大林作品ですが、本作はその比じゃないくらいの情報量です。
それは大林さんが、伝えたいことを全部作品に乗っけるからなのですが(笑)
すべてをごちゃまぜにして、一見して破綻しているようなものが、映画のクライマックスには全てが繋がって大円団を迎えるという、監督の恐ろしい手腕で成立しているわけです。
「わけわからん」「変な映画」「説教臭くてつまらんな」と思っている間に、気づいたら映画の世界に引き込まれ、最後は納得させられてしまうというこれぞ映像の魔術師の真骨頂。
本作は特にその感覚が強く、改めて大林さんは本当に巧みな監督でもあるなぁと思いました。
と、同時にこれは僕の印象ですが、近作の「戦争三部作」に比べて本作は圧倒的にわかりやすいエンタメ作品だとも思いました。
ストーリーも、映画を見に来た3人の若者が映画を通じてタイムリープしてしまい、戦争映画を通して日本の戦争の歴史を追体験する中で成長していくという、わかりやすい1本道ですし、はっきりギャグを入れてたり、映画の笑えて楽しい部分を前面に出しています。
それは大林さんが屈指のシネフィルで、映画を心から楽しい娯楽だと思っているからであります。
本作はそんな“映画少年”、大林信彦の遊び心が満載の映画になっています。
●映画の歴史をたどる映画
本作は映画の歴史をたどる作品でもあるのですが、まずビックリするのがまさかのSF映画からスタート、しかもモロに「2001年宇宙の旅」という(笑)
カウントダウンの掛け声から、スタッフや製作委員会を読み上げ、さらにヒントン・バトルさん(一般の人からしたら誰やねんという 笑)の紹介と、長い長いタイトルロールが終わり、尾道の風景と自転車に乗る少女、瀬戸内キネマに立つ憲兵が映し出されたかと思うと、いきなり宇宙船の中に放り込まれます。
そこに座る爺・ファンタ(高橋幸宏)と名乗る老人が、白い宇宙船に乗って時空を超えながら人類の戦争の歴史を語り、故郷の尾道に降り立つという、、、もうなにがなにやらという始まり。
この爺・ファンタ。もちろんファンタジーのもじりであり、「HOUSE」に出てきた女の子ファンタも連想する小ネタ(笑)
そして、この狂言回しの老人は大林さん本人でもありますね。
そして舞台は閉館を迎える瀬戸内キネマ。
日本の戦争映画オールナイト上映に集まる観客の中に、本作の主人公の3人、
馬場鞠男(厚木拓郎)、鳥鳳介(細山田隆人)、団茂(細田善彦)と、本作のヒロインである羽原希子が登場。
まぁパンフにも書いてありますが、名前の仕掛けも面白くてですね。
馬場鞠男=マリオ・バーヴァ、鳥鳳介=フランソワ・トリュフォー、団茂=ドン・シーゲルと名監督たちの名前のもじりであります。
ちなみに大林ファンには有名な話で、馬場鞠男は監督が昔使っていた名前ですね!
さらに、ヒロインの名前も斉藤一美(成海璃子)、芳山和子(山崎紘菜)、橘百合子(常盤貴子)と、
それぞれ尾道三部作のヒロインの名前という遊びっぷり!
20年ぶりに尾道を舞台にした作品ということで、尾道三部作への思いもやはり詰まっているんですね。
そしてここから怒涛の1時間!
敗戦後に作られたミュージカル映画、時代劇、モノクロサイレント映画、戦争映画、任侠映画などを、お得意の怪奇映画要素を加えながら、自由としか言いようがない演出や編集で見せていきます。
この部分、先述した通り、考えられる映画技術、映像技術のすべてをぶち込んで超スピードで進んでいくので、その映像表現に身を任せるしかできないのですが、これがめちゃくちゃ快感でして、、、
わけのわからないまま、映画に振り回される体験ってなかなかできないですし、しかもそれが楽しくて、日本の戦争史の勉強にもなるという至福の時間なわけですよ!(笑)
もちろんここにも監督の、映画であることを意識させるメタなギャグが挟み込まれるもんだからめっちゃ笑える!
「なんでセリフが字幕で!?」「無声映画なんだよ!」とか、音楽が盛り上がったところで「いい感じの音楽が鳴ってきた!映画は僕に任せろ」って言ったり、戦闘中も「戦争映画はアクション娯楽でもある!」とか、本当にただの映画好きが作ったようなギャグ!
展開がひと段落したところで、なんとインターミッションまで用意されてる始末です(笑)
このインターミッション、一瞬音声が完全に止まり、本当にトイレに行ってもいいのかなと思ったあたりで再開するので、フェイクな訳ですが(笑)
さらには大林ファンなら嬉しい、大林監督が子供のころに制作した「マヌケ先生」というアニメまで、文字通り飛び出すもんだから歓喜!!
そんなわけで、楽しい楽しい映画は科学技術とともに発展して、サイレントからトーキーへ、モノクロからカラーへ、特撮や合成、フィルムからデジタルへと進化していくのですが、一方で科学技術というものは、常に戦争とともに発展してきたものでもあります。
●日本戦争史をたどる作品
先述の本作の楽しいエンタメとしての側面と同時に、戊辰戦争から連なる日本の戦争史の悲惨さを描いていきます。
権力や正当性を手に入れた者の暴力性、という点において戊辰戦争から第二次世界大戦の日本は繋がっていて、その人たちのいう正義を信じ込まされてきた人々たちは凄惨なことを行い、悲惨な運命を辿っていく。
その起点として戊辰戦争を置き、長州による日本政府の成立、帝国支配的な考えをもとにロシアや中国に戦争を仕掛け、そして第二次世界大戦へと突き進んでいく日本を、“映画”というメディアを使って緻密に描き出して行きます。
ここに至って、冒頭に希子が言う「映画で学ぶ」ということを、登場人物たちも、そして観客も体験させられるという構成の見事さ!
まぁ僕も本当に知らなかったことがたくさんというか、学校の授業でも(真面目に聞いていなかったこともあるかと思いますが、、、)断片的に出来事を追っているだけで、一本の線で学ぶことをしていなかったわけです。
監督のイデオロギー的な部分は多分にあると思いますが、「この世界の片隅に」のすずさんよろしく、「これがこの国の正体だったんね、、、」と思いました。
映画の話に戻すと、劇中のある人物が亡くなったことで、主人公の3人にも変化が訪れます。
それは先述した「戦争映画はアクション娯楽でもある!」というメタギャグへのアンサーでもあって、「やっぱり戦争を娯楽として描くのは危険だ」っていうことなのですが。
戦争映画の中で主人公の大切な人が死ぬということは、ともすれば悲劇的な感動のシーンとして描かれますが、本作では主人公たちがその戦争映画に入っているわけで、そこから主人公たちは大切な人を守るためにはどうすればいいのか、と動き出すわけです。
ここから映画のトーンも変わり、メロドラマ的なトーンに変わっていくのですが、ここに来て大林さんが、それこそ“尾道三部作”に代表されるようにずっと描いてきた“古里映画”の究極系が完成したなと思いました!
●究極の“古里映画”
そもそも“古里映画”とはなんなのかといえば、大林監督がその土地で、その古里のためにその土地の人たちと作る映画ということなのですが、そういう風に言われるようになったのが“尾道三部作”なわけです。
ただ、これに対して大林さんには忸怩たる思いもあり。というのは、尾道が“聖地”として観光客が増えたことで、その土地らしさを失ってしまうのではないかと、それは“町興し”ではなく“町壊し”ではないかと、そういうことを2018年の尾道映画祭でおっしゃっていました。
「野のなななのか」ではその部分もはっきり言及されているのですが、そういった部分も踏まえた上で、“古里映画”というものは、消えゆく古里(生まれ故郷とは限らない)のあり方や人の温かみ、その歴史を映画を使って伝え、忘れないように記憶するプロジェクトなんだと僕は解釈しています。
そういう意味で、本作が“古里映画”の究極系だと僕が思うのは、これは我々の“古里”である祖国やひいては地球全体、また“古里”としての“映画”に対する愛を監督が語った映画でもあると思うです。
本編に何度も引用されていた中原中也の「野卑時代」も、そんな詩でした。
「文明開化と人云うけれど 野蛮開発と僕は呼びます」
で、“古里”としての“映画”に対する愛については、先述した通りこの映画が「映画の歴史を辿る映画」であることからそう感じるのですが、前者についてはちょっと話がややこしくて。
それは、愛する祖国や地球全体で人類が起こす「戦争」というものへの痛烈な怒りが込められているからです。
その怒りが特に表れていると感じたのが、中盤から後半にかけて描かれる、ヒロインたちの物語です。
茂と色街の娘(成美璃子)の物語、沖縄での鳳介と加也(山崎紘菜)の物語、そして桜隊の物語。
この辺のエピソードのドラマとしての美しさと残酷さたるやというところで。
色街での茂と娘の物語は、貧しく体を売ることでしか生きられなかった女性たちの連鎖の悲惨さを描いていて、そんな中で茂と娘が交流を深めていく様子が本当に美しく儚いのです。
「これぞ大林映画!」というヒロインの見せ方に思わず鳥肌が立ってしまうほど美しい海辺のシーンや、ついに二人が結ばれるときの割れたガラスのような映像処理なんかは本当に感動しました。
成海璃子さんの演技も本当に素晴らしくて。
全編通して成海璃子さんは力強い印象を与える演技なのですが、ここでの力強さもありつつ儚さをたたえた、本当に美しい演技でした。
沖縄での鳳介と加也の物語では、結婚を誓った幼馴染の2人が戦争によって引き裂かれる様が描かれていきます。
先の大戦で、日本軍が沖縄に対して行った残虐な行為が明らかにされていくのですが、これが本当に直視するのも厳しいものがありまして。
「口減らしもお国の為」と、軍が民間人を殺していたこと。強姦に略奪。
要は人を人扱いしていなかったという、本当に非人間的なことをやっていたということにショックを受けました。
「お前は日本人か?」「人だ!」
このセリフに全ての戦争に対する怒りが詰まっていると思いました。
一瞬出てくる満島真之介さんの佇まいと目の演技が雄弁にその怒りを伝えていてすごいなと思ったり。ヒロインの加也演じる山崎紘菜さんの、これでもかというぐらい純粋で真っすぐで明るい演技が、相変わらず堂々たるヒロインとして本当に見事で素晴らしかったです。
沖縄の人のしゃべる琉球の言葉、奏でる音楽、美しい景色のすべてが愛おしく、それを壊した者への怒りを感じるエピソードでした。
演目が中止になれば8月6日に広島に滞在することになる桜隊を救うべく、演目を成功させるため、主人公たちは合流します。
ここで語られる、長岡の米百俵のエピソードは「この空の花~」でも語られていたように、「国を育てるには人を育てること。そのために教育は大事なんだ」と。同じように、演劇や表現は人の想像力を育てるための教育でもあると、そういう風に感じました。
若くして満州でこの世を去った山中貞夫や、戦中に戦意高揚映画を撮らされることになったが、1カットも撮らなかったことで反戦の意を表した小津安二郎の話。
そして政府やGHQから2度の検閲の末、18分も切り取られた「無法松の一生」を使って、愛する人を愛したいという、個人の表現すらも奪っていく戦争と権力への怒りを描き出していました。
このエピソードで、丸山貞夫が主人公たちに言う「恋人を自ら選ぶ心で、平和を手繰りなさい」というセリフが、すごく印象に残っています。
そして8月6日。
「結局何も救えなかった」「映画の傍観者になっちゃダメなんだ!」
そう叫びながら走る主人公たち、ひいては監督が、観客である我々に突き付けてきます。
尾道の雨、沖縄の雨、色街の雨、広島の黒い雨。
様々な形で劇中に登場する“希望の子”である希子。
満州、沖縄、広島、長岡、、さまざまな場所で一所懸命に生きようとした人たちの記憶と、それを守れなかった人たちの断念。
失われた古里への思い。
これらのすべてが、クライマックスの鞠男と希子のバストショットのモンタージュで、それまで本編の中に散りばめられてきた様々な要素と共に、集約されていくという見事さ!!
映画というものは時間や場所を超えて、人を対話させることができる。
それはもちろん映画というウソなんだけど、そこにマコトを作ることができる。
これこそが、“記憶と繋がるタイムマシン”である映画の為せるワザであり、人間の想像力への希望である!と、大林さんが叫んでいるのだと思い、思わず号泣(笑)
だって、本気で映画に救われた人間としては、こんなにも“映画の力”を信じてる人がいて、こんなにも観客である我々を信じてくれていると、そう思うだけでもう胸がいっぱいなわけです。
本作で描かれるヒロインたちはもちろん、すべての大林作品のヒロインが魅力的で、切なく情緒あふれたタッチで描かれるのは、大林少年が恋し、「僕の映画を見せる」と約束したあのお姉さんへの思いがずっとあるからなんだろうなぁと、そんなことも思いました。
さて、本作のエピローグでは冒頭に出てきた憲兵が再登場。
本作は全編にわたり、中原中也の詩が引用されているのですが、ここで劇中何度も引用されていた「秋の夜に」という詩が出てきます。
「人類の背後に、はや暗雲が密集している 多くの人はまだそのことに気が付かぬ」
我々の周りには常にこの憲兵がいる。他者への想像力を欠かした瞬間に、その憲兵はこちらに向かって、仲間になれと呼びかけてくるのでしょう。
そうならないために、学び、表現し、自分であるために自由であることを求め続けなくてはダメだなと、僕は思いました。
と、思っていると突然、大林さんの声で「エンディングの途中ですが、まずはこの曲をどうぞ」みたいな感じで、エンディングが始まります(笑)
この映画もまたエンドマークの無い映画。
この続きを描くのは、我々、今を生きる人たちなのですね。
なんか、それっぽくまとめた感じが気持ち悪いのですが(笑)
結構な字数かけたのですが、この映画の魅力の100分の1程度しか書けてない気がして、、、ってかパンフレットも最高ですので是非お買い求めください!(笑)
本当にどれだけ言っても、百聞は一見に如かずの作品ですし、一見しても卒倒してしまうので、何回も観ないといけないと思うので、この映画が劇場にかかってる間は可能なかぎり観に行こうと思っています(笑)
日本映画の巨匠、映像の魔術師、そして永遠のアマチュア“映画少年”大林宣彦の最新作。
こんな映画は二度と観れないと思いますので、是非、劇場で観て頂けたらと思います!!
個人的には今年ベスト!!おすすめです!!